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黒滝(くろたき)の悲話

[2015年9月16日]

文太丸

戦国時代の天文二年(一五三三)、南房総に勢力を振るっていた里見家に内乱が起き、里見家当主の義豊と、その従兄(いとこ)、義堯(よしたか)との間に激しい合戦が行われました。犬掛(いぬかけ)合戦と呼ばれていますが、義豊(よしとよ)が敗れて討死しますと、戦国時代は哀れです。
それを知った義豊の正室は自害し、義豊の子をおなかに宿していた側室の倉子(くらこ)は、兄の小倉定綱(さだつな)に伴われて、夜ひそかに長狭と丸の境の大井山へ逃げ込んだのです。間もなく夜が明けましたが、今いる所も、そこがどこか分からずにいますと、出会った草刈童(くさかりわらわ)が「ここは大井山・磑(するす)の森、下の流れは黒滝川」と教えてくれました。定綱と倉子は、やっとのことで今の和田町五十蔵(ごじゅうくら)・黒滝にたどりつき、粗末な家を借り、そこを出産のための宿としました。そして幾日か過ぎ、倉子は男の子を出産しましたが、悲しいことに産後の肥立ちが悪く、「小倉山麓のすすき枯るるともまた来ん秋は尾花ゆらめけ」と辞世の歌を残し、この世を去ったのです。生まれた子は文太丸と名づけられ、やがて成人しますと小倉定通と名乗り、里見家に仕えたそうです。